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対馬の海に沈むのはJA全体なのかも

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「誰も悪くない」からこそ救いがない。JAという巨大組織が抱える "構造的な悲劇"

日本の農業を支える巨大組織、JA(農協)。

外から見ると「既得権益の塊」のように批判されることもありますが、その内情を深く紐解くと、そこには「誰も私腹を肥やしていないのに、関わる全員が不幸になっていく」という、日本特有の悲しい構造が見えてきます。

なぜ、正論だけではこの組織を変えられないのか。今日はその「構造的な病」について考えます。

1. 世界の常識と逆行する「競争なき独占」

まず、日本のJAが世界的に見ていかに特殊かを知る必要があります。

欧米の農業協同組合には健全な「競争原理」が働いていますが、日本のJAは「総合農協」として地域を「独占」しています。

ライバルがいないため、「サービスを良くして選んでもらおう」という努力よりも、「今の組織規模をどう維持するか」に力が注がれます。これが、組織が肥大化したまま硬直してしまう根本原因です。

そして、この独占企業が、多大なコストをかけて営業・広告をしています。

本来、競争環境で意味があるはずの莫大な営業コストは、最終的に手数料や資材価格という形で、すべて農家に跳ね返っています。非営利組織でありながら、自らの組織維持コストを稼ぐために農家から搾取する。これが「若干の割高」を生み出すカラクリです。

2. 「対馬の海に沈む」〜悲劇が示す組織の切迫度

この構造的な悲劇の最も象徴的な事例が、ノンフィクション『対馬の海に沈む』などで描かれた事件です。

国境の離島JAで、「神様」と呼ばれた職員が、自ら運転する車で海に転落し溺死。後に巨額の横領が発覚しました。

この事件が持つ痛切な皮肉は、横領という「悪事」が、ある意味では「組織の悲鳴」であった可能性を物語っている点です。

横領の「意味」: 横領した資金は、彼の私腹を肥やすためだけではなく、その支店が抱えていた地獄のような営業ノルマを一時的にごまかすために使われた側面もあると考えられます。

組織の切迫: 「神様」と呼ばれるほどの優秀な職員でさえ、横領という極端な手段に走らなければ、「職員過多を補うためのノルマ」から支店を守ることができなかった。この事実は、JA組織全体がいかに切羽詰まった状況にあるかを雄弁に物語っています。

「誰も悪くない」から、「誰か」が「悪事」を働くことでしか現状を維持できない。これが、JAが抱える最も残酷な真実です。

3. 小泉元大臣が敗北した「現状維持」の壁

このままでは、農家も職員も共倒れになる。誰もがそう感じていながら、合理的な改革は進みません。

小泉進次郎氏が「金融と農業の分離」という正論を掲げたとき、現場はそれを拒絶しました。農家自身もJA職員も、「合理的な変化」よりも「慣れ親しんだ現状」を選んだのです。それは、「みんなで空気を読んで一緒に沈んでいく安心感」を選んだ瞬間でした。

組合員(農家)は間接的とはいえJAの経営権があるにもかかわらず、押し売り営業を拒めない。波風を立てないように変えようともしない。

誰もが飛び出して悪い人はおらず、事務局トップでも年収は突出していない。

私服をこやした圧倒的な悪者がいればその人を倒せば済むので話が早いが日本社会はいい人が多いのが根本原因を複雑化する要因にもなっている。

それでも、すべての人が「古くからの習わし」と「組織の威厳」を守ろうとするあまり、需要と供給が乖離した現状維持に固執し、組織全体がジリ貧になってしまう。

農家あたりの職員の数の割合は年々増えてしまっています。競争原理が働かないためパーキンソンの法則に陥ってしまっている。

4. 論理ではなく「心」で動かす

この負のループを断ち切るには、政治家による「論理的な説得」では限界があります。

すでに『対馬の海に沈む』が示唆したように、構造的な犠牲者が出ている状況です。

必要なのは、このままでは愛する農業や故郷が組織とともに死に絶えるという「悲劇の予感」を、理屈ではなく「心」で感じてもらうことです。

ノルマに苦しみ、横領に手を染めてしまう職員の悲壮感。

自分の家業を守るために、不必要な共済に入り、経営体力を奪われる農家の苦渋。

この人間ドラマを通じて、「このままではいけない」という静かな覚悟が、現場の農家と職員の間に広がることを願うばかりです。

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