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ウクライナ戦争前と酷似しているSNSファシズムという状況

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ウクライナ戦争について語られるとき、ほとんどの場合、結論は最初から決まっている。

「ロシアが悪い」「ロシア人が悪い」。

この単純で感情的な言葉はSNSで拡散され、疑問を挟む余地すら許されない空気を作り出した。

だが、本当にこの戦争は「善と悪」だけで説明できるものだったのだろうか。


マイダン革命は本当に「英雄的民主化」だったのか

2014年のマイダン革命では、100名以上が狙撃され死亡した。

しかし、その狙撃者の正体はいまだに明確ではない。

それにもかかわらず、事件は「市民による民主革命」という美談として語られ、検証や疑問は「親ロ派」「陰謀論」として排除されていった。

さらに、当時から存在していた極右武装組織やアゾフ連隊といった存在は、いつの間にか報道から消え、言及すること自体がタブーになった。

「語られなくなった事実」が増えるほど、物語は単純化し、SNSで拡散しやすい“分かりやすい正義”だけが残っていった。


ロシア依存という現実を無視した外交選択

ウクライナの経済と生活インフラは、もともとロシア依存が強かった。

これらを一気に断ち切ることは、理想論ではなく現実の生活に直撃する

にもかかわらず、

ドンバスに住むロシア語話者からすれば、「政治的選択の代償」を一方的に押し付けられた形だった。

西側へのエネルギー転換はコストも運用負荷も高く、EUに加盟したとしても、ギリシャのように経済破綻した国が現実に存在する。

それでも「西側につけば助けてくれる」という言説だけが拡散された。


SNSが生んだ「ロシアンヘイト」とエコーチェンバー

SNSでは、過激で単純な言葉ほど拡散されやすい。

アクセス数が多い意見が、いつの間にか「正しい意見」になり、冷静で合理的な分析は埋もれていった。

こうして形成されたエコーチェンバーの中で、ロシア側の安全保障上の視点は一切考慮されなくなった


経験のない大統領と、煽られた世論

ゼレンスキー大統領は、政治経験のない人物だった。

彼が支持を集めた最大の要因は、ロシアへの強硬姿勢だったとも言える。

これらが、ロシアにとって「一線を越えるシグナル」であるという理解は、SNS世論の中ではほとんど共有されなかった。

「西側につけば守ってもらえる」

「ロシアは侵攻できない」

こうした誤情報が拡散され、結果として最悪のシナリオ=ロシア侵攻が現実になった。


戦争後に残ったのは、誰のための正義か

侵攻が始まると、ウクライナ国内の世論はさらに過激化した。

生活は苦しくなっても、「逃げる自由」は制限されていく。

SNSで叫ばれていた「自由」「民主主義」とは、誰のための言葉だったのか。


これは日本の未来ではないのか

同じ構図が、今の日本でも見え始めている。

一方で、正確で合理的な外交・安全保障の説明をすると、

「スパイだ」

「親中だ」

とレッテルを貼られ、排除される。

核抑止力はただのプロパガンダ

 で指摘しているように、核抑止論は緊張を煽りたい側の論理であり、証拠や整合性に乏しい

それでもSNSでは、

「核を持てば安心」

「持たないのはお花畑で愚か」

という単純な結論だけが残り、いつの間にか核保有賛成が“多数派の空気”になっている。


SNS世論は、合理的外交を簡単に踏み潰す

SNSは民主主義を強化するどころか、

へと社会を押し流す。

その結果、正確で複雑な外交戦略よりも、煽りが優先される

ウクライナ戦争は、その帰結の一つだったのではないか。

そして日本も、同じ道を進み始めているのではないか。

戦争は、突然始まるのではない。世論が「それしかない」と思い込まされたときに、静かに準備が整う。

そのことに、今こそ目を向けるべきではないだろうか。


世論は素人であり、時間も能力も限られている

一般市民は、

仕事や生活の合間に、SNSで流れてくる「短く」「刺激的な」情報に触れるだけだ。

それ自体は責められるべきことではない。

問題は、その素人の集合知が常に正しいとみなされている点にある。


SNSが世論を「単純化・過激化」させる構造

SNSでは、

という明確な構造がある。

結果として世論は、

という幼稚な二元論に押し込められる。

なぜインフルエンサーは事実より過激な発言が多いのか

で述べている通り、インフルエンサーが過激化するのは思想の問題ではなく、アルゴリズムへの適応だ。

そしてこの単純化・過激化は、もはや娯楽や炎上だけの問題ではなく、政治判断そのものに影響を与える段階に来ている。


「世論は正しい」という前提が、もはや成立しない

民主主義では、世論が正当性の源泉とされる。

だが、

のであれば、その前提自体が崩れている。

それでも政治家は、

「世論がそう言っている」

「支持率が下がるから」

という理由で、合理的ではない政策・危険な発言を選択してしまう。

ウクライナの例で言えば、NATO加盟や核放棄見直し発言が「支持される空気」を作ったのは、冷静な戦略論ではなく、SNS世論だった。


間違った世論を「修正する手段」が存在しない

さらに深刻なのは、一度固定化したSNS世論を修正する方法がほぼ存在しないことだ。

というラベル貼りで、議論は即座に遮断される。

これはもはや「意見の違い」ではなく、ファシズムだ。


では、SNSに制限をかけるしかないのか

この構造を放置すれば、

という流れは止まらない。

そう考えると、SNSに何らかの制限を加える以外に方法がないのではないか
という、極めて不都合な結論に行き着く。

しかし当然、

という批判が必ず出てくる。

皮肉なことに、SNSが世論を極端にしている現実を直視せず、SNS規制だけが「危険」とされる


民主主義は「前提条件」を失いつつある

民主主義は本来、

を前提として成立する制度だった。

しかし今や、

ウクライナ戦争は、その破綻が最も悲劇的な形で表出した例かもしれない。

そして日本もまた、同じ構造の中で「煽りが正義になる社会」へと進んでいる。

問題はもはや、「何が正しいか」ではない。

正しさが成立しなくなる仕組みそのものに、私たちはどう向き合うのか、という段階に来ているのではないだろうか。

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